さて、googleの中の人によると「機械的な順位を表示しているだけなので、政治的にも中立です」とのことでした。しかし、これは「私は中立なので、結果として中立です」と循環論法を使っているに過ぎません。または、「技術的(科学的)な中立性」と「政治的な中立性」を混同しているだけです。いくら科学的に中立な技術でも、たとえば「科学の進歩のためには、クローン人間を作るべき」とはならず、政治的に・人道的に中止されてしまうのと同じことです。「政治的な中立」は、何も考えない状態ではありえないことを、ちょうど今、サッカーのワールドカップが行われているので、それでたとえてみましょう。

「中立性」とは、別の言葉で言い換えれば「公平性」となります。サッカーの試合では、お互いに11人づつで試合が始まりますが、このルールは本当に「公平」でしょうか?ワールドカップは国ごとの対戦ですので、「1国につき11人の代表」となります。しかし、国によって人口は異なります。サッカー人口に限っても、サッカーの上手い人に限っても、その数は異なります。とすると「一票の格差の是正」、つまりサッカーをする人全員に等しい出場確率を与えるとすれば、11人と言う前提を取っ払って、5人対101人とかで試合をやらないと「公平」では無くなります。別の公平性、たとえば「任意の国が勝つ確率」を公平にするならば、世界ランク100位とかのチームが1点入れたら、それは3点分にするといった「ハンディキャップ」を付けなければいけません。

でも、なんかおかしいですね。なんとなく、5人対101人が公平な試合とは思えません。これは、何に対して「公平」または「中立」にするか、観点が異なるからです。サッカーが11人と決まっているのは、試合条件の公平性を重視しているからです。「数学的な関数(比例関数)で出た結果による人数です。人の手は加えられていません」と5人にされても、納得出来ないでしょう。

政治的な中立性というのも、これと同様です。機会の公平性から言えば、前回の選挙結果は関係無く、等しい機会(演説の時間など)を設定しなければなりません。「前回の選挙で勝ったから、ポスターは1.5倍です」としていては、政治的な中立とは言えないでしょう。なぜならば、選挙と言うのは変化や変革を起こすために行われるのだからです。ところが、googleの検索結果は常に連続的に変化するため、またgoogleが設定する計算式の性質のため、少なくとも「長く存在する政党の方が、露出的には有利」となります。単純接触効果を仮定するなら露出が多いだけで選挙には有利ですし、仮定しないとしても「中立かどうか議論がある」ことになります。なんでもかんでも自由だと、いつの間にか5人対101人になっている可能性があります。中立・公平と言うのは、自然発生的に起きるのではなく、人為的な「ルール」を考え強制することによってでしか成立しえないのです。

にも関わらず、「数学的アルゴリズム万能主義」を掲げ、中立かどうかの議論から逃げるgoogleは、楽観的というよりも、単に「何も考えてない馬鹿」としか言いようがありません。

「優等生だけど馬鹿」

たぶん、そんな感じなのでしょう。素人じゃないのですから、「Excelで計算したので間違いありません」などと、検算・監査せずにもってこられても困ります(機械的な出力を鵜呑みにした、耐震強度偽装なんて話もありましたね)。どうも、この辺に「google脅威論」の源泉があるように思います。長くなったので、続きます。

(注)googleが政治的中立性を考慮しないといけないかどうかについては、議論があります。Googleは、その議論からも逃げています。

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