「アンカテ」と言うblogにおいて、「現在のGoogle八分は、スーツの暴走。本当に怖いのは、ギークの暴走が引き起こすGoogle八分」なる主張がされています。ここで、聞きなれない方もいらっしゃると思いますが、スーツ/ギークとは、おおよそ以下のような意味です。

スーツ
経営者、政治家、資本家といった人たちのこと。「政治家」よりは、「政治屋」と言った方が正しい。論理や科学ではなく、マネーや利権で動く。
ギーク
優れたコンピューター技術者の総称。「職人」的な意味合い。昔は、「ハッカー」と呼ばれていたが、ハッカーに破壊者と言う意味が含まれるようになったため、ギークに置き換わった。知的好奇心や数学的合理性で動く。

本当のGoogle八分、「真・Google八分」がより恐ろしいのはアンカテに書かれてあるとおりです。しかし、ここで私が言いたいのは、Google八分問題は検索エンジンが内包する必然的な問題であって、「暴走」では無いと言うことです。なぜならば、ギークもスーツも同じ「社会」の一員であり、また「純粋なギーク」も単なる「想像上の生き物」に過ぎないからです。「暴走」や「汚染」と言った単語をあてることで本質を見誤るため、注意が必要です。

さて、Google八分の本質とは何でしょう?それは、「表現の自由にも限界がある」と言うことです。どのような種類の自由にも社会的に限界があり、例えば「人を殺す自由」は通常認められません。表現の自由についても同様で、アナーキスト(無政府主義者)でも無い限り、絶対どこかしら限界が存在します。グーグルも、なんらかの考え・アルゴリズムの結果として検索結果を「表現」しているのですから、必然的に限界が生じ、Google八分を行わざるを得なくなります。

これは、「暴走」では無く、社会的な必然です。

言い換えるならば、「インターネットは、完全に自由であるべき」と言う主張が是ではないのと同様です。あるのは暴走ではなく、せいぜい「良いGoogle八分」と「悪いGoogle八分」の違いだけです。悪徳商法マニア的に言うならば、「マルチ商法は、ねずみ講では無いので、破綻しない」と言う主張が誤りなのと同様です。せいぜい、「破綻が見えにくい」「破綻が遅い(特殊な条件下では破綻しない)」と言うだけで、破綻と破綻しないの間には濃淡があるのですから、ある/なしでデジタル的に考えるのは間違っています。


簡単な破綻の濃淡のイメージ図

つまり、「八分の無いGoogleが、正しいGoogle」なのではなく、「社会的に許容される範囲で八分を行うGoogleが、正しいGoogle」なのです。その許容される範囲について、現状では、

  • 判断基準が、不明であり曖昧
  • 理由が示されない
  • 対象の言い分が考慮されない(欠席裁判)
  • 第3者機関などのチェックがされていない
  • と言うか、そもそも「Google自身が認めていない」場合が多い

などの理由で、大変な問題があると思います。また、検索エンジンは数社に寡占、しかも全て営利企業と言うのも問題でしょう。

なお、真・Google八分と同様の機能は、Yahooにおいて実現されているのでは無いかと想像しています。

そろそろ、「アイドルは、トイレに行かない(ロック歌手は行っても良い?)」と言った思い込みからは、卒業した方が良いんじゃないでしょうか?


Tags